19歳女の話

追い詰められた瞬間を書きとめていくので見てください、20歳になりました

晩夏

夜、窓を開けて車を走らせると風が冷たく、秋の訪れを教えるように風が優しく首元を撫でた。夏は毎年挨拶なくやってきて地上を焼かんばかりの光と紫外線をばら撒き、何も言わずにいつのまにか去っていく。暑いと文句と汗を垂らすがそんな夏が好きだ。やり残したことがたくさんあるのに、また来年ともそろそろ終わりとも言わずに去っていく。西瓜も食べ損ねてしまったし七月に買った花火はまだ出来ていない、プールもまだ、と指折り数えているうちに来週の天気予報には傘が開かれ、おまけにその雲の塊にはご丁寧にどこの国の言葉がよく分からない名前が付けられている。今年の夏がもう終わる。夏が追いやられて秋が来る。夏の終わりはいやに寂しい。       

 

自分が一番不幸だと思うことで心の平穏を得ている人間が一定数居るというのは周知の事実であろうが、その病気が最も悪化するのは秋から冬にかけてだろう(あくまで個人的に)。現代のソーシャルネットワークサービスでは能動的な情報取得にのみならず、受動的にも情報を得ることが出来る。どちらも一長一短であると思うが、受動的に情報を得ることについての”短”の事を書いていきたい。一言で言うと、見たくないものを見てしまうことが増えたということ。嫌なら見るな、そんなことは分かっている。しかしそれだけで防げないことがあることも事実だ。

仰々しく自分の悩み・恨みを書き連ね、個人が特定できる状況でもはや公共の場と化したSNS上に公開する。私からすれば、プライベートな事を書いた日記を電車の中で音読することと等しい。そしてそれは、非常に愚かな行為に見える。こんなに悩んでいてこんなに恨んでいる、不幸だと叫んでいる。個人的にだが、秋から冬にそういう投稿が増える気がする。近しい友人だけや、限定公開ならばまだ理解はできるが何百人も見ているようなところでそれを叫ぶ意味はなんだろうか。同情が欲しいのか、他人の自分へ対するハードルを下げているのか、構って欲しいのか、はたまたその全てか。行動原理がよく理解できない。かつ、私はそういう投稿が嫌いだ。人間はネガティブな事を考えるとそれをインプットする。それを文字に起こす事で二度目のインプットを行う。作り上げた文章を見返す事でより色濃く三度目のインプットが行われる。投稿する事で再び目にして、はたまた口にする事で四度目のインプットが行われる。次の日、その文章を見たなら五度目になるだろう。記憶の厚塗りだ。言霊という言葉はこの事を言ってるんじゃないかと思う。感情が収まっていても言葉や文字の形として存在するものに人間はコントロールされる。感情はその場でなくても後から必ず追いかけてくる。ネガティブな事柄は考え形にし目にすることで余計に頭に強く記憶されるのだ(勿論その逆も然り)。だから私はネガティブな事を思ってもなるべく文字には起こさない。

人は忘れる生き物である。そういう風に神が上手く海馬を設計したのだ。悪いことも良いことも等しく忘却して、またニュートラルな気持ちで日々に取り組んでいけるように。しかし、人には記憶という有限であるが素晴らしい機能がある。その限りあるメモリになぜ、悪い事を自ら記録させていくのかが理解できないし、多少の苛立ちすら感じることがある。

美しいことだけを残して、嫌なことは忘れてしまえばいい。都合よく記憶を作り上げればいいのにいつまでたっても王子様の現れない悲劇のお姫様気取りだ。若い頃ならば似合っていたその涙と悲しい色をしたドレスも歳をとればただの布切れと戯言。並べ立てられた問題の解決の糸口を見つけるよりも砂浜に落ちた一粒の砂金を見つけることの方が簡単だといけしゃあしゃあとした顔で言い放つだろう。騒ぎ立て一生に一度だと言わんばかりに絶望を剥き出しにしていても、同じように叫んでいた去年の今頃何に悩んでいたのかSNSを遡らなければ分からないような連中が全体の九割を占めている。きっと、来年も再来年もこう思うのだろう。

投げたナイフが誰もいない壁から跳ね返って私の喉元を切り裂いて死んで終わり。